困難に陥った時こそ焦らず、希望を持ち続けることが大切【ハリウッド女優に学ぶ“オンナの生き方”】
4歳の頃から子役として活躍し、ハリウッド映画界に進出した、サラ・ポーリー。
病気治療のために映画界を離れた後も希望を持ち続け、じっと我慢をしながらチャンスを待つその忍耐力と行動力に学びたい。
映画「ウーマン・トーキング 私たちの選択」サラ・ポーリー
2010年、自給自足で生活しているキリスト教一派の人々が住む村が舞台。
子供たちは愉快に遊び、大人たちは祈りと信仰を支えにしながら平和に暮らしていましたが、ある日女性が暴行されたという事件が発覚します。
しかし村の男たちは女性の訴えを作り話だと受け流したり、悪魔の仕業だと主張して聞く耳を持ちませんでした。
そんなある晩、青年が少女の寝室に忍び込んだ事件がきっかけでこれまで暴行を働いた者たちが逮捕されます。
男たちは犯人の保釈金を払い二日間村を離れることになり、残された女性たちは納屋に集合します。
そしてこの村の未来について話し合い、投票によって自分たちの今後の行動を決定しようとするのです。
“赦す”、“この地に留まり男たちと闘う”、“この場を去る”。
この三つの選択肢について村の女性たちは話し合います。彼女たちの意見は互いの環境や思想の違いから分かれますが、数人の女性が強姦されたという事実を前に、一部の男たちへの憎悪と復讐心は共通していました。
しかし各々が自身の信仰との狭間に立ち、村の異変に気づいていたのに放置していた己の罪を感じ始めるのです。
本作は南米ボリビアの宗教コミュニティで実際に起きた事件を元にした小説の映像化なのですが、スカーフェイス役で出演しているフランシス・マクドーマンドが原作のオプション権を獲得し、その話を聞いたサラ・ポーリーが自らアプローチして監督することになりました。
この作品は女性が強姦されていた事件を描いた物語ですが、実はサラ・ポーリー自身も10代で性被害に遭っていました。
しかし彼女は当時そのことを公にできなかったそうです。
サラは、“壊れた世界をいかに立て直すかという話し会いが持つ、終わりのない潜在的な力と可能性を全てのフレームで感じたかった”と、力強くコメントしています。
そして完成した「ウーマン・トーキング」は、第95回アカデミー賞の作品賞と脚色賞にノミネートされ、脚本も書いたサラ・ポーリー監督が脚色賞を受賞したのです。
本作の監督・脚本のサラ・ポーリーは、役者をしていた両親のもとカナダで生まれました。
4歳の頃から子役として活躍して「クリスマスに届いた愛」で映画デビューを果たし、その後女優としてハリウッド映画界に進出したのです。
彼女はメジャー作品だけでなく良質なインディーズ作品にも出演して役者としての地位を築いたのですが、次第に監督業にも意欲を見せ、28歳で監督した「アウェイ・フロム・ハー 君を想う」(初の長編映画)では脚本も担当して様々な映画賞に輝き、第80回アカデミー賞では脚色賞にノミネートされました。
そして34歳の頃、自身の家族に関する秘密をテーマにしたドキュメンタリー映画「物語る私たち」では、ロサンゼルスやニューヨークの映画批評家協会賞のドキュメンタリー映画賞を受賞するのです。
映画界において順調にキャリアを積んでいたサラでしたが「アラスカを追いかけて」の制作中に脳震盪後症候群となり、治療のため撮影現場から去ることになってしまいました。
インタビューなどではユーモアを交えて答える陽気な性格のサラでしたが、映画現場から離脱することになり気を落としていた時期もあったそうです。
しかし彼女は映画界に戻る希望を失わずじっと我慢を続け、数年の時を経て自ら「ウーマン・トーキング」のプロジェクトに参加したいと願い出て映画界に復活したのです。
人は誰しもが体調を崩したり病気を患い人生に悲観する時があります。
しかしサラ・ポーリーのように病気を克服して復活そして成功する人もいます。
何かの理由で人生が停滞している人は、サラ・ポーリーのように自分が困難に陥った時こそ焦らず、ジャンプする前にしゃがんでいるだけだと思えば少しだけ気持ちが楽になるかもしれません。
ウーマン・トーキング 私たちの選択
監督・脚本/サラ・ポーリー 出演/ルーニー・マーラ、クレア・フォイ、ジェシー・バックリー 他 公開/6月2日(金)TOHO シネマズ シャンテ、渋谷ホワイトシネクイント 他
Written
by コトブキツカサ(映画パーソナリティー)
Profile/1973年生まれ。小学生の頃からひとりで映画館に通うほどの映画好き。現在、年間500本の映画を鑑賞し、すでに累計10,000作品を突破。1995年より芸人時代を経て、2010年より「映画パーソナリティー」としての活動を開始。近年は、俳優としての顔ももち、ドラマや映画にも出演。活動の場を広げている。